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STEP8:傷付いて学んでいく

スコン、という感じで目の前の大きなモノがなくなった。

彼女は、メンバー一人一人に会って舞台を行わないことを告げたらしい。
俺や毛利さんの悪口をさんざん言われてるんだろうな、と思ったが、まあいいやそんなこと、と思った。

ただ、もうメンバー全員で会うことはない、というのが寂しかった。

それまでずっと、連絡はすべて俺がやって来たのだ。みんなの予定を調整したのも俺だし、それぞれの参加の意気込みも聞いてきた。

大学院に通ってるSさん。稽古にあまり来れず、その日その日の伝達事項を毎回電話しましたねー。
年輩のNさん。舞台は初めて、というので稽古の合間に生意気にもアドバイスさせてもらいました。
大学生のM君。半分さらうように無理矢理連れて来ちゃったなあ。
Aちゃん。せっかくみんなの人気ものになったのに。

そして毛利さん、寒さで指が真っ赤っかになりながらギターの練習をしましたね。いろいろ勇気づけられました。

・・・申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
ごめんなさい。

一人一人に俺なりに義理を果たそうと、携帯電話を手にした。

その瞬間、そうだ、と思い付いた。

彼らは、公演があるはずだった日まで、予定を空けてるはずだ!
俺はみんなのスケジュールを全部把握している。

そうだ、そうなんだ!

俺は電話をかけた。
「まったく同じメンバーで、映画作りませんか?」

当て書き、という言葉は後から知った。
なくなってしまった劇団の仲間、全員が登場するストーリーを考えた。
俺は『シナリオの書き方』という本を3日でむさぼり読み、1週間でシナリオを書き上げた。

しかし人生は美談ばかりではない。

俺はまだ、映画の組織と言うものにまで考えがまわっていなかった。
この作品の規模はどんどん大きくなり、結局35名もの人が関わった。
しかしこのうち、撮影に関わったスタッフは俺たった一人。かつ俺も出演者の一人だったのだ。

今考えると無茶苦茶である。
それでも撮影は終了した。

俺は一人ヘトヘトになり、他の人は何をしたらいいのか分からずボーっとしていた。
いっぱいいっぱいになった俺は怒鳴ったこともある。
連れてこられた大学の友人ははっきりと言った。
「分不相応なことをするなよ。」  
落ち込んだ。

例の女子大生監督とも交流が続いていて、彼女の方の映画の助監督も務めることになっていた。

彼女の映画は、自閉症の女の子が主人公の、俺とは全く別の雰囲気の作品だった。
撮影は、慶應大学のキャンパスで始まった。

音声を担当している女性スタッフがいて、暇な時によくしゃべった。
俺もねー、映画作ってるんだ。でも音楽作れる人がいないから困ってるんだよ。
「この前行ったライブで歌ってた男の子、歌ウマかったよ。電話番号聞いてるから、かけてみたらどう?」

池袋の飲み屋で、俺たちは改めて自己紹介をした。

彼は沖縄出身で、なんと俺と同い歳だった。映画の件も、快諾してくれた。
やったー!と思った。これで映画が完成する!
彼は今度、知り合いとユニット組んで初めてライブやるんだと言った。
行くよ行くよ、と俺は答えた。
「navy&ivoryって言うんだけどね。」  
彼は少しぎこちなく、そう言った。

navy&ivoryには、その後のカルフのほとんどの主題歌を担当してもらうことになる。
2001年に「第21回ON Fes 2001」においてグランプリを受賞してからの彼らの活躍はすさまじく、2003年全国CDデビューを飾り、今では数カ月先のライブもチケット即日ソールドアウト、という人気ぶりである。
もちろん、俺も彼らの大ファンである。

ボーカルの下地君と知り合ってから、時々会って話していた。
俺の作る映画の話が目的だったが、自然と『夢と現実』の話になっていく。
彼らはいつもいつも悩んでいた。
『夢を持ち続ける』には、ものすごいエネルギーが必要なのだ。

俺も悩んでいたから、ただ話を聞くくらいしかできなかったが、そんな彼らを、少しうらやましいなと思っていた。
下地君には、吾郷さんという相棒がいる。
2人は親友でもあり先輩後輩でもあり、よきライバルでもあった。

片方が辛い時は、もう片方が精神的に支える。

俺には、映画の悩みを伝える人がいないということに気付き、また落ち込んだ。
相棒がいるといいな、と俺は思った。


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STEP09:撮影が終わったら、あとは何も残らない…
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