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第二話:映画を撮るぞ
話はずいぶん前にさかのぼる。
当時19歳だった俺は、ひょんなことからビデオカメラを手に入れた。
そう言えば、自分のことを「俺」と本格的に呼び始めたのも、この頃だ。
生まれ育った田舎町では、自分のことを「わえ」と呼んでいたのだが、広島市内の高校に通うようになりからかわれて止めた。そして広島の男の92.6%が使用していると言われる「わし」に変えた。

ところが大学はひょんなことから東京に来てしまったのだ。3年かけてやっと慣れ親しんだ「わし」であるが、東京でこれを使うには少々抵抗があった。
そもそも「そうじゃけー」「食っとる最中じゃ」「しんどいけん」…という濁音まみれのコトバ自体、「それでさー」「あのさー」「てゆうかさー」というスースーした文化には溶け込めるはずもなく。
俺はあっさり「わし」を捨てた。

思えばこの頃はまだ、周りにすぐ影響受けてただ流されるだけのか弱い男であった。
ただその「すぐ影響受ける」のが幸いしたのかもしれない。田舎から出てきた小心で自意識過剰で人見知りの激しい男がそんなに簡単に友人を作れるはずもなく、唯一の友達がレンタルビデオであった。見ているうちに、あー面白いな俺も作ろうかな、という発想に至るのだ。

で、20歳の誕生日に初監督作を撮った。
この「20歳の誕生日に」というのに特に意味があるわけではなく、撮っているうちに誕生日を迎えてしまっただけである。誕生日に誰か一緒に過ごす恋人も友人もいなかっただけの話だ。
初監督作は、『復讐』というホラーだった。
(なお、ホラーと呼んでいるのは俺だけで、見た友人は皆コメディーだと言う。仕方ないので、間をとってホラコメと呼ぶことにしている。)

そして、何事もなかったかのようにビデオデッキとビデオカメラをつないで編集を始めた。
ここで「何事もなかったかのように」と書いたが、そもそも他に何事もやることがなかったから、ビデオ編集なんてものに手を出すわけで。
思えば暗い青春時代だった。ま、ともかく…。

特に何かを読んで参考にした、誰かに教わった、という覚えがないから、当時の俺にとっては『常識』だったのかもしれない。
ちなみに俺は大学に入るまで、ビデオ録画すら一人でやったことがなかった。

ここで一番初期の機材をまとめてみる。



ビデオ録画すらやったことがなかったので、当時の俺がアナログケーブル端子の3種類の色の違いを分かっていたかどうかは定かでない。
しかし、
推理1:そもそも映画を作るなんて恥ずかしくて誰にも言えなかったはず。
推理2:ビデオデッキは大学に入ってから買ってもらったのではなかったか。
ということから、 誰かに聞いたわけではなく、取扱説明書に書いてあった可能性が高い。
ちなみに、一応説明しておくと…

黄色端子=映像用
赤色端子=音声用1
白色端子=音声用2

再度書くが、あくまでこのコーナーは大雑把な概念をつかむためのものなので、細かいことは省略している。
これだけ分かっときゃあ理解に困らないだろう、という最低限ラインで話を進めていくのだ。

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